Story of Thinkfree

だからこそ今を生きる(1) October 27,2010

杜氏は多くを語るわけではない。しかしその行動を、背中を見せてくれた。体はもう限界のはずだった。しかし、麹の状態を見るために、夜中もろくに眠らず仕事を続けた。まるで仕事をするために、酒を造るために生きているようだった。

日下部杜氏が亡くなったのは、2009年の3月のことだった。

酒を造るために生きていた

2008年11月、長年竹野酒造の杜氏として活躍された日下部氏は顧問として蔵に入った。新体制への移行期として、親父が杜氏を務めた年だった。日下部杜氏はその前年の造りで形式上は引退されたのだが、技術継承のため顧問として来て頂いたのだ。翌年の1月初旬までの約束だった。

しかし年が明けて2009年となってからも、日下部氏は限界まで蔵に残った。日下部氏は、投薬により気分が落ち込んでいるはずだったが、傍目から見るには全然分からないほど普通に桶を洗っている。そして温度チェック、麹の状態などを管理する私たちの指導を続けた。

予定を大幅に過ぎた1月下旬、ついに体調不良が限界に達し、入院。蔵で平常を保とうとしていた体には、当時すでに癌が全身に転移していたのだ。

実感がなかった

日下部氏の訃報が届いたのは、甑倒しが終わり、ちょうど酒を絞っている最中だった。親父はすぐに、新温泉町(兵庫県)まで駆けつけることとなった。

親父が日下部氏の元へ向かったあとも、私は仕事を続けていた。火入れが終わるまでは酒の質がどんどん変化していく。品質を下げる訳にはいかない。片付けまできっちりするのが仕事だ。

そう、その時は実感がなかったのだ。

日下部氏が「死んだんだ」ということを初めて認識したのは、葬儀の場でのことだった。蔵のみんなで駆けつけた葬儀の場では、私はもはや動けない状態だった。出棺で、みんな出て行っているのに、私は葬儀場から出られないままだった。あれほどまでに泣いたのは、生まれて初めてだった。同時に私は、人間は死ぬものなのだ、ということを改めて実感したのだと思う。

思えば、おやっさん(日下部氏)の携帯番号は、今もまだ残したままだ。